前の5件 | -
新木場で会いましょう-1
ゆるやかに。
終わることを知る。
終わらないことを祈る。
時間。
深夜の新木場で。
私たちは何を話すのか
しかし言葉なくただその夜の中にいた。
運河の堤防の柵にもたれかかる。
運河を挟んだ対岸には巨大クラブagehaが見えて
低いビートがかすれながらも耳に伝わる。
まるで霧の中で聞く風の残響ようだ。
水面に写るいくつもの光が白い波間を照らし、
暗い水の中に引きずり込まれそうな錯覚を覚える。
水の中はあたかも死なのだ。
私は水の中に私の死を見出しては恐れてばかりいたのだ。
それは強烈な死への誘惑であり、
強烈な生への執着でもあった。
他方はそうは思わず
湿気モクに火をつけ、水面に反射した光に吐く息をプカプカ浮かべていた。
そして、
それが彼女を見た最後の夜となった。
「新木場で会いましょう。」
終わることを知る。
終わらないことを祈る。
時間。
深夜の新木場で。
私たちは何を話すのか
しかし言葉なくただその夜の中にいた。
運河の堤防の柵にもたれかかる。
運河を挟んだ対岸には巨大クラブagehaが見えて
低いビートがかすれながらも耳に伝わる。
まるで霧の中で聞く風の残響ようだ。
水面に写るいくつもの光が白い波間を照らし、
暗い水の中に引きずり込まれそうな錯覚を覚える。
水の中はあたかも死なのだ。
私は水の中に私の死を見出しては恐れてばかりいたのだ。
それは強烈な死への誘惑であり、
強烈な生への執着でもあった。
他方はそうは思わず
湿気モクに火をつけ、水面に反射した光に吐く息をプカプカ浮かべていた。
そして、
それが彼女を見た最後の夜となった。
「新木場で会いましょう。」
それから、雨音呟く
私には好きな歌がある。
音楽なんて普段あまり聴かないし、そういうことには疎いのだけど。
それでも時々聴きたくなる歌がある。
私がそんな風に言うと、あきゃは笑う。
何が可笑しいのかははっきり言えないのだけど、違和感があって可笑しいのだという。
7月をすすむ。
最初にその歌を聞いたのは多分、二年くらい前。
桜が終わった季節だった。
さぁ、どこへ行こう。
学生は夏休みを前にして浮き足立っている。
講義の最中もどこか上の空な学生が目に付く。
シオリもその一人。
大学4年生のシオリにとっては最後の夏休みなので、ゼミの仲間と卒業旅行に行くのだと、1ヶ月以上まえからはしゃいでいるのだ。
行き先はロンドンなのだとか。
学生の分際で贅沢だ、と私が詰ると、シオリはこれでも他に比べたら質素な方、と悪びれもせずに言った(まぁ研究室でのバイトで稼いだ自費で行くのだから悪びれる必要もないのだが)。
帰り際、クローバー橋で空缶を蹴飛ばす。
街灯の向こうの闇に吸い込まれて消える。
思わず目を凝らして、先を追うが、やがて無意味なことに気づき、ひどい徒労感を味わった後で諦める。
それから。
事務所までの道を、好きな歌を鼻歌で口ずさみながら帰る。
細い路地裏からも、月の姿は見えたまんま。
先日、神楽坂のカフェでヨーコと飲んだときの話。
ヨーコは今度、デザインから設計まで全て一人で任せてもらえることになった、と仕事の話を嬉々としてしていた。
羨ましいような、けど私は「大変なんじゃないの?」などと余計な言葉を吐いた。
それじゃ前には進めないよ、とヨーコは辛らつな目を向けた。
酒が濁った。
久々に事務所の風呂をキレイに掃除している。
隅々まで磨き上げる。
なかなか落ちない水垢に、ホースの水ばかりかける。
跳ねて、服のすそを浸す。
7月は行く。
ミルクからmixiにメッセージが届いていた。
ドイツのハンブルグで開催される写真の展覧会に招待されたのだと書いてあった。
私は「おめでとう」という短いメッセージを返した。
夜中にコンビニに行く。
目的なんてない。
ただ、夜の中を歩いていく。
サンダルの踵を引きずる。
どこに行こう。
ではなく。
どこに行けるだろう。
自問自答。
なんていうと陳腐だし、もうそんなに若くもない。
「嫌われたくない
自分のせいにされたくない
言いたいこと言えず
人任せにして哀しい
素直な曇り空上手に泣いている
何から探そうか 雨音呟く
スポーツ観戦だけが楽しみなこの頃の僕
贔屓にしてるチームに勝利をたくして
自分に勝てないストレスをまやかしている
素直な曇り空上手にぼやいている
何から始めようか 雨音呟く
今日も学校や会社で負けてきたよ
でも明日も行ってくるよ
負けた選手に野次を飛ばしながら
本当は自分に野次を飛ばしていた
素直な曇り空上手にぼやいている
何から話そうか 雨音呟く」
小谷美紗子の「雨音呟く」って歌。
自嘲気味に笑う。
けれど。
諦めたわけではないし、そんな気さらさらない。
私は夜中の明治通りをアイス片手に大声で歌いながら走る。
7月。
梅雨はもうすぐ終わりだよ。
音楽なんて普段あまり聴かないし、そういうことには疎いのだけど。
それでも時々聴きたくなる歌がある。
私がそんな風に言うと、あきゃは笑う。
何が可笑しいのかははっきり言えないのだけど、違和感があって可笑しいのだという。
7月をすすむ。
最初にその歌を聞いたのは多分、二年くらい前。
桜が終わった季節だった。
さぁ、どこへ行こう。
学生は夏休みを前にして浮き足立っている。
講義の最中もどこか上の空な学生が目に付く。
シオリもその一人。
大学4年生のシオリにとっては最後の夏休みなので、ゼミの仲間と卒業旅行に行くのだと、1ヶ月以上まえからはしゃいでいるのだ。
行き先はロンドンなのだとか。
学生の分際で贅沢だ、と私が詰ると、シオリはこれでも他に比べたら質素な方、と悪びれもせずに言った(まぁ研究室でのバイトで稼いだ自費で行くのだから悪びれる必要もないのだが)。
帰り際、クローバー橋で空缶を蹴飛ばす。
街灯の向こうの闇に吸い込まれて消える。
思わず目を凝らして、先を追うが、やがて無意味なことに気づき、ひどい徒労感を味わった後で諦める。
それから。
事務所までの道を、好きな歌を鼻歌で口ずさみながら帰る。
細い路地裏からも、月の姿は見えたまんま。
先日、神楽坂のカフェでヨーコと飲んだときの話。
ヨーコは今度、デザインから設計まで全て一人で任せてもらえることになった、と仕事の話を嬉々としてしていた。
羨ましいような、けど私は「大変なんじゃないの?」などと余計な言葉を吐いた。
それじゃ前には進めないよ、とヨーコは辛らつな目を向けた。
酒が濁った。
久々に事務所の風呂をキレイに掃除している。
隅々まで磨き上げる。
なかなか落ちない水垢に、ホースの水ばかりかける。
跳ねて、服のすそを浸す。
7月は行く。
ミルクからmixiにメッセージが届いていた。
ドイツのハンブルグで開催される写真の展覧会に招待されたのだと書いてあった。
私は「おめでとう」という短いメッセージを返した。
夜中にコンビニに行く。
目的なんてない。
ただ、夜の中を歩いていく。
サンダルの踵を引きずる。
どこに行こう。
ではなく。
どこに行けるだろう。
自問自答。
なんていうと陳腐だし、もうそんなに若くもない。
「嫌われたくない
自分のせいにされたくない
言いたいこと言えず
人任せにして哀しい
素直な曇り空上手に泣いている
何から探そうか 雨音呟く
スポーツ観戦だけが楽しみなこの頃の僕
贔屓にしてるチームに勝利をたくして
自分に勝てないストレスをまやかしている
素直な曇り空上手にぼやいている
何から始めようか 雨音呟く
今日も学校や会社で負けてきたよ
でも明日も行ってくるよ
負けた選手に野次を飛ばしながら
本当は自分に野次を飛ばしていた
素直な曇り空上手にぼやいている
何から話そうか 雨音呟く」
小谷美紗子の「雨音呟く」って歌。
自嘲気味に笑う。
けれど。
諦めたわけではないし、そんな気さらさらない。
私は夜中の明治通りをアイス片手に大声で歌いながら走る。
7月。
梅雨はもうすぐ終わりだよ。
雨を待つ紫陽花の頃に
「また梅雨が来るね。」
昨晩、モニカから急に届いたメールにはたった一行、それだけが書かれていた。
6月。
研究棟のトイレの窓からは、この時期になると紫の花を付けた紫陽花が見えた。
トイレの窓は男子用小便器の正面についているので、私たちはその姿を用を足しながら見るのだった。
「今年も紫陽花咲いたな。」
私は研究室で呟くよう言った。
「だって6月じゃん。もう入梅してるんだよ、先生。」
シオリは歌うように言った。
確かに窓の外はシトシトと雨粒が落ちていて、色とりどりの傘を持った学生たちがキャンパスを行きかっていた。
「先生、紫陽花好きなんですか?」
とシオリ。
「好きというか…。なんか…。まあ、好きなんだろうなぁ。」
私は曖昧に言った。
「変な答え。」
シオリはクスクスと笑った。
紫陽花。
決まって思い出すのは、ずっとずっと前のちょっとした思い出だ。
確か高校生の終わりぐらいの頃。
その年の6月は梅雨が深く、雨の降らない日を探す方が難しかった。
私はモニカや仲間たちと人形町のビリヤードホールで退屈な時間をもてあましていた。
「雨はキライ。」
流香はそう言っては眉を顰め不機嫌な顔をした。
実際、流香は雨に濡れた靴下が許せないのだといって、高校に長靴を履いていくほど雨に対しては警戒心を持っていた。
私やモニカは「やりすぎだよ」と笑ったが、流香は背に腹は変えられないのだと不機嫌に言っていた。
そういえばミカは雨が好きだった。
雨の日は決まってビーチサンダルで、お気に入りのレインボーのアンブレラをさしながら、水溜りをちゃぷちゃぷと歩いていた。
素足に触れる水の感触が心地いいのだと言った。
6月の半ばくらいだった。
その日は梅雨前線が一休みしていて、朝からよく晴れていた。
久しぶりに心地よく学校に向かった。
前日までジメジメしていてくぐもった教室は、初夏の日差しと柔かい風に洗われてすっきりとしていた。
私は机にうつぶせになり、フワフワとした気分でいた。
うつらうつらと授業を流していた2限目の終わりくらいに、ポケットの中で突然ポケベルのバイブが震えた。
私は教師に気づかれないように注意を払いながら、ポケベルを確認した。
「ミカから号令。至急東京駅集合!!バカンスしよう モニカ」
ミカのいつもの我侭がはじまったな。
私はため息をついたが、しかし内心ではワクワクした気持ちでいっぱいだった。
2限目の授業が終わると、私は学校から抜け出して東京駅に向かった。
東京駅に着くと、モニカや流香、リナやミカといった既にいつもの面子が集まっていた。
パブリックスクール(寄宿制高校)に通っている涼くんの姿もあって、いったいどうやって抜け出してきたのかと不思議に思った。
「ぺろ、遅刻だよ。」
ミカは私の顔を見るなりそう言ったが、そもそも遅刻も何も時間とか言われてないだろ、と突っ込みの一つでも返そうと思ったが、場の空気を呼んで諦めて従った。
ミカは全員の点呼をとって(例の「1,2,3,4」という具合のやつだ)、全員が番号をいい終えるとご満悦そうな顔で、
「それじゃあ、これから鎌倉に遠足に行きます。」
と宣言した。
私たちは突然のことに多少唖然としたが、ミカの思いつき行動には慣れていたので、すぐに気を取り直して従った。
東京駅から全員で総武快速に乗った。
昼前ということもあり、電車は比較的空いていて、私たちはボックス席2つを独占し、モニカと流香が買い込んでいたお菓子を食べながら興奮気味に騒いだ。
久々に晴れたこと、そして電車での長旅、という2つの事柄が渡私たちのテンションを自然と上げていた。
電車が北鎌倉のホームに着くと、ミカはここで降りよう、と促して私たちは慌ててホームに駆け出した。
モニカが「スコーン忘れた!!」と叫んだが、急かされて降りた電車はすでにホームから発車していて、後の祭りだった。
私たちは紫陽花寺と名高い明月院を見てから、山道のハイキングコースに入り銭洗い弁天なんかに立ち寄った。
金に意地汚い(褒め言葉だ)モニカは銭洗い弁天で諭吉様を入念に洗っていた。
「この3諭吉が願をかけただけで10諭吉になったらそれはそれで幸せじゃない。」
モニカはあっけらかんとそう言った。
私は垢まみれになっていたギザ十(縁がギザギザの10円玉)をピカピカになるまで洗った。
ミカはそれを見て貧乏臭いと笑った。
まぁ、実際に貧乏なんだから仕方がない。
私たちは急勾配のハイキングコースを誰が言い出したのか、全員で手をつないで歩いた。
「修学旅行みたいだね。」
とリナは言ったが、修学旅行はこんな感じではない。ということは断言できる。
私たちは海の見える丘によじ登って、そこで休憩をした。
制服のまんま、くわえタバコで海を見ながらバカ話をした。
海風は微かに潮の匂いがして、鼻をくすぐった。
だから。なのか、私は何度かくしゃみをした。
「心配しないで。誰にも噂なんてされてないから。」
モニカは私がくしゃみをするたびに嫌味たらしく言ってきた。
「そういえばさぁ。去年、九十九里であったカヨコちゃん。今年も海の家やるから遊びにきてってさ。」
リナは言った。
「そうだね。今年もまたみんなでボディボードしたいね。」
ミカがそう言うと、
「あたし、日焼けはやだよ。お肌に悪いから。」
と流香は顔を曇らせながら言った。
「さすが美白魔人だねぇ。」
モニカはそんな風に言って流香をからかった。モニカは何かにつけて一言多いタイプだから。
「梅雨って。」
涼くんが突然つぶやいた。
「梅雨って何であるんだろうなぁ?」
私はしばし考え込んだ。多分みんなも同じように考え込んでいた、と思う。
「梅雨の存在理由なんて考えたこともなかったな。」
私は言った。
「そうだよね。でも季節じゃん、ってい言っちゃえばそれまでなんだろうけどさ。それじゃ、嫌われものの梅雨があまりに哀れだね。」
とモニカ。
「あたしは梅雨好きだよ。だって雨好きもん。」
ミカがそういうと、全員から「それはあんただけ」というツッコミが入った。
「多分さ、夏に成長するための準備をしてるんだよね。」
流香はそんなふうに言った。
「それじゃあ、夏がオトナの象徴みたいじゃない?」
リナは疑問を呈したが、
「でも、まぁそう考えればそれはそれでしっくりくるのかもね。」
と自身の疑問を打ち消した。
頭の上には柔らかな午後の日差しが降りそそいできた。
私たちは休憩を終えてから、ハイキングコースを鎌倉の方に向かって下っていった。
鎌倉の町はいつ来ても心が和む。
駅前から八幡宮まで延びる小町通は平日にもかかわらず、結構な人手だった。
私たちのような制服姿も多数見受けられ、修学旅行か何かだと思った。
私たちは小町通を少し入った脇道にあるレコード屋に入った。
ミカのお気に入りだというレコード屋Casino classicsはボッサとフレンチポップのアナログが壁に並べられたオシャレな店だった。
ミカはジョアン・ジルベルトのレコードと、福富さんのCDを買っていた。
店を出ると陽は緩やかに傾き始めていた。
「日が暮れる前に海に行こっか。」
というミカの提案で私たちは由比ガ浜に向かって歩き始めた。
砂浜に着くともうすっかり夕方だった。
「疲れたぁ。」
モニカはそう言うと、砂浜に大の字になって寝転がった。
私たちもモニカに続いて、次々と大の字になった。
地面からは波の揺らぎが伝わってきて、体を心地よく脈打った。
「一足早い夏休みみたいだ。」
涼くんは独り言みたいに言った。
みんなで見上げた空は、目が沁みるくらいのオレンジで、私たちもそのオレンジに染まって、ふと世界の境界がわからなくなるような錯覚に陥った。
一緒にいるということ。
不意に強く意識付けられたその感情は、目の奥をつんとさせた。
「いい一日だったよ。」
私がそう言うと、
「だってそれは当たり前なのよ。みんなでいるんだから。」
とミカはぼんやりとした口調で答えた。
帰り際、夜の鎌倉駅の脇で、ひっそりと咲く紫陽花を見つけた。
ほんの4,5輪だけの紫陽花。
「写真撮ろっか。」
リナは自慢のKodakのBigMini(森山大道も使っているのだとか)を取り出した。
私たちはワラワラと紫陽花の前に、なんだかヘンテコな感じで並んで、セルフシャッターでファインダーの中に収まった。
きっと。
これがみんなで撮った、一枚きりの写真だと思う。
それ以前も、以降も。
夜になっても研究室の外は雨だった。
シトシトとしてジメジメとして、時折頭を重たくするその気圧は陰鬱なものでしかなかった。
けれど。
時々ふと思い出す。
これは夏になるための準備なんだ。
「雨はキライじゃなくなったよ。」
私は夜の雨の中で、
モニカにそんなメールを返した。
昨晩、モニカから急に届いたメールにはたった一行、それだけが書かれていた。
6月。
研究棟のトイレの窓からは、この時期になると紫の花を付けた紫陽花が見えた。
トイレの窓は男子用小便器の正面についているので、私たちはその姿を用を足しながら見るのだった。
「今年も紫陽花咲いたな。」
私は研究室で呟くよう言った。
「だって6月じゃん。もう入梅してるんだよ、先生。」
シオリは歌うように言った。
確かに窓の外はシトシトと雨粒が落ちていて、色とりどりの傘を持った学生たちがキャンパスを行きかっていた。
「先生、紫陽花好きなんですか?」
とシオリ。
「好きというか…。なんか…。まあ、好きなんだろうなぁ。」
私は曖昧に言った。
「変な答え。」
シオリはクスクスと笑った。
紫陽花。
決まって思い出すのは、ずっとずっと前のちょっとした思い出だ。
確か高校生の終わりぐらいの頃。
その年の6月は梅雨が深く、雨の降らない日を探す方が難しかった。
私はモニカや仲間たちと人形町のビリヤードホールで退屈な時間をもてあましていた。
「雨はキライ。」
流香はそう言っては眉を顰め不機嫌な顔をした。
実際、流香は雨に濡れた靴下が許せないのだといって、高校に長靴を履いていくほど雨に対しては警戒心を持っていた。
私やモニカは「やりすぎだよ」と笑ったが、流香は背に腹は変えられないのだと不機嫌に言っていた。
そういえばミカは雨が好きだった。
雨の日は決まってビーチサンダルで、お気に入りのレインボーのアンブレラをさしながら、水溜りをちゃぷちゃぷと歩いていた。
素足に触れる水の感触が心地いいのだと言った。
6月の半ばくらいだった。
その日は梅雨前線が一休みしていて、朝からよく晴れていた。
久しぶりに心地よく学校に向かった。
前日までジメジメしていてくぐもった教室は、初夏の日差しと柔かい風に洗われてすっきりとしていた。
私は机にうつぶせになり、フワフワとした気分でいた。
うつらうつらと授業を流していた2限目の終わりくらいに、ポケットの中で突然ポケベルのバイブが震えた。
私は教師に気づかれないように注意を払いながら、ポケベルを確認した。
「ミカから号令。至急東京駅集合!!バカンスしよう モニカ」
ミカのいつもの我侭がはじまったな。
私はため息をついたが、しかし内心ではワクワクした気持ちでいっぱいだった。
2限目の授業が終わると、私は学校から抜け出して東京駅に向かった。
東京駅に着くと、モニカや流香、リナやミカといった既にいつもの面子が集まっていた。
パブリックスクール(寄宿制高校)に通っている涼くんの姿もあって、いったいどうやって抜け出してきたのかと不思議に思った。
「ぺろ、遅刻だよ。」
ミカは私の顔を見るなりそう言ったが、そもそも遅刻も何も時間とか言われてないだろ、と突っ込みの一つでも返そうと思ったが、場の空気を呼んで諦めて従った。
ミカは全員の点呼をとって(例の「1,2,3,4」という具合のやつだ)、全員が番号をいい終えるとご満悦そうな顔で、
「それじゃあ、これから鎌倉に遠足に行きます。」
と宣言した。
私たちは突然のことに多少唖然としたが、ミカの思いつき行動には慣れていたので、すぐに気を取り直して従った。
東京駅から全員で総武快速に乗った。
昼前ということもあり、電車は比較的空いていて、私たちはボックス席2つを独占し、モニカと流香が買い込んでいたお菓子を食べながら興奮気味に騒いだ。
久々に晴れたこと、そして電車での長旅、という2つの事柄が渡私たちのテンションを自然と上げていた。
電車が北鎌倉のホームに着くと、ミカはここで降りよう、と促して私たちは慌ててホームに駆け出した。
モニカが「スコーン忘れた!!」と叫んだが、急かされて降りた電車はすでにホームから発車していて、後の祭りだった。
私たちは紫陽花寺と名高い明月院を見てから、山道のハイキングコースに入り銭洗い弁天なんかに立ち寄った。
金に意地汚い(褒め言葉だ)モニカは銭洗い弁天で諭吉様を入念に洗っていた。
「この3諭吉が願をかけただけで10諭吉になったらそれはそれで幸せじゃない。」
モニカはあっけらかんとそう言った。
私は垢まみれになっていたギザ十(縁がギザギザの10円玉)をピカピカになるまで洗った。
ミカはそれを見て貧乏臭いと笑った。
まぁ、実際に貧乏なんだから仕方がない。
私たちは急勾配のハイキングコースを誰が言い出したのか、全員で手をつないで歩いた。
「修学旅行みたいだね。」
とリナは言ったが、修学旅行はこんな感じではない。ということは断言できる。
私たちは海の見える丘によじ登って、そこで休憩をした。
制服のまんま、くわえタバコで海を見ながらバカ話をした。
海風は微かに潮の匂いがして、鼻をくすぐった。
だから。なのか、私は何度かくしゃみをした。
「心配しないで。誰にも噂なんてされてないから。」
モニカは私がくしゃみをするたびに嫌味たらしく言ってきた。
「そういえばさぁ。去年、九十九里であったカヨコちゃん。今年も海の家やるから遊びにきてってさ。」
リナは言った。
「そうだね。今年もまたみんなでボディボードしたいね。」
ミカがそう言うと、
「あたし、日焼けはやだよ。お肌に悪いから。」
と流香は顔を曇らせながら言った。
「さすが美白魔人だねぇ。」
モニカはそんな風に言って流香をからかった。モニカは何かにつけて一言多いタイプだから。
「梅雨って。」
涼くんが突然つぶやいた。
「梅雨って何であるんだろうなぁ?」
私はしばし考え込んだ。多分みんなも同じように考え込んでいた、と思う。
「梅雨の存在理由なんて考えたこともなかったな。」
私は言った。
「そうだよね。でも季節じゃん、ってい言っちゃえばそれまでなんだろうけどさ。それじゃ、嫌われものの梅雨があまりに哀れだね。」
とモニカ。
「あたしは梅雨好きだよ。だって雨好きもん。」
ミカがそういうと、全員から「それはあんただけ」というツッコミが入った。
「多分さ、夏に成長するための準備をしてるんだよね。」
流香はそんなふうに言った。
「それじゃあ、夏がオトナの象徴みたいじゃない?」
リナは疑問を呈したが、
「でも、まぁそう考えればそれはそれでしっくりくるのかもね。」
と自身の疑問を打ち消した。
頭の上には柔らかな午後の日差しが降りそそいできた。
私たちは休憩を終えてから、ハイキングコースを鎌倉の方に向かって下っていった。
鎌倉の町はいつ来ても心が和む。
駅前から八幡宮まで延びる小町通は平日にもかかわらず、結構な人手だった。
私たちのような制服姿も多数見受けられ、修学旅行か何かだと思った。
私たちは小町通を少し入った脇道にあるレコード屋に入った。
ミカのお気に入りだというレコード屋Casino classicsはボッサとフレンチポップのアナログが壁に並べられたオシャレな店だった。
ミカはジョアン・ジルベルトのレコードと、福富さんのCDを買っていた。
店を出ると陽は緩やかに傾き始めていた。
「日が暮れる前に海に行こっか。」
というミカの提案で私たちは由比ガ浜に向かって歩き始めた。
砂浜に着くともうすっかり夕方だった。
「疲れたぁ。」
モニカはそう言うと、砂浜に大の字になって寝転がった。
私たちもモニカに続いて、次々と大の字になった。
地面からは波の揺らぎが伝わってきて、体を心地よく脈打った。
「一足早い夏休みみたいだ。」
涼くんは独り言みたいに言った。
みんなで見上げた空は、目が沁みるくらいのオレンジで、私たちもそのオレンジに染まって、ふと世界の境界がわからなくなるような錯覚に陥った。
一緒にいるということ。
不意に強く意識付けられたその感情は、目の奥をつんとさせた。
「いい一日だったよ。」
私がそう言うと、
「だってそれは当たり前なのよ。みんなでいるんだから。」
とミカはぼんやりとした口調で答えた。
帰り際、夜の鎌倉駅の脇で、ひっそりと咲く紫陽花を見つけた。
ほんの4,5輪だけの紫陽花。
「写真撮ろっか。」
リナは自慢のKodakのBigMini(森山大道も使っているのだとか)を取り出した。
私たちはワラワラと紫陽花の前に、なんだかヘンテコな感じで並んで、セルフシャッターでファインダーの中に収まった。
きっと。
これがみんなで撮った、一枚きりの写真だと思う。
それ以前も、以降も。
夜になっても研究室の外は雨だった。
シトシトとしてジメジメとして、時折頭を重たくするその気圧は陰鬱なものでしかなかった。
けれど。
時々ふと思い出す。
これは夏になるための準備なんだ。
「雨はキライじゃなくなったよ。」
私は夜の雨の中で、
モニカにそんなメールを返した。
自主映画『飛行機去れども ボクらは征かず』
先日、私の研究室に1本のメールが届いた。
親しい友人の自主映画の宣伝だった。
以下に転載しておく。
----------------------------------------------------------------------------------
現在、YouTubeにて2007年制作の自主映画を公開しております。
http://jp.youtube.com/watch?v=dnSTKbGwFQo (1/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=-XXlXdwSa2w (2/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=Y-nvnFim70M (3/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=E0bmBb8fP-4 (4/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=7v3fBQrnOQA (5/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=t7RUNM5-ltc (6/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=N78H6bFt02Q (7/7)
『飛行機去れども ボクらは征かず』 監督・脚本:佐藤一平 出演:前川あや子、諏訪部貴士、藤田早織、森沢美優、平吹正名 助監督:新垣亜希子 美術・衣装:藤原里美 制作・録音:佐藤陽介 音楽:プラチナティファニー 制作:2007年 フォーマット:DVCAM/58分
長いので7分割にしております。
宜しくお願いいたします。
ご興味のある方、お暇な方に見ていただければ幸いです。
あろはしすてむ 代表・きのこ山
http://alohasystem.blog49.fc2.com/
-------------------------------------------------------------------------------------------
親しい友人の自主映画の宣伝だった。
以下に転載しておく。
----------------------------------------------------------------------------------
現在、YouTubeにて2007年制作の自主映画を公開しております。
http://jp.youtube.com/watch?v=dnSTKbGwFQo (1/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=-XXlXdwSa2w (2/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=Y-nvnFim70M (3/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=E0bmBb8fP-4 (4/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=7v3fBQrnOQA (5/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=t7RUNM5-ltc (6/7)
http://jp.youtube.com/watch?v=N78H6bFt02Q (7/7)
『飛行機去れども ボクらは征かず』 監督・脚本:佐藤一平 出演:前川あや子、諏訪部貴士、藤田早織、森沢美優、平吹正名 助監督:新垣亜希子 美術・衣装:藤原里美 制作・録音:佐藤陽介 音楽:プラチナティファニー 制作:2007年 フォーマット:DVCAM/58分
長いので7分割にしております。
宜しくお願いいたします。
ご興味のある方、お暇な方に見ていただければ幸いです。
あろはしすてむ 代表・きのこ山
http://alohasystem.blog49.fc2.com/
-------------------------------------------------------------------------------------------
二月の象
夕焼けを見てると寂しくなる。
って言ったのはミルク。
目黒のビルに傾いた夕焼けを研究室の窓から見つめているとき、不意に思い出した。
キャンパスは後期試験を終え、閑散としていた。
毎年、冬と春の間の僅かな季節が心を置き去りにする。
「ここにいるような、いないような」曖昧な自己の輪郭が、淡い空気の間に流れ出して、実態を形作らぬまま漂う。
私はこの状態を「不安」と呼んでいる。
そういえば。
と、私はむかし見たフィルムのことを思い出した。
あれは確か、まだ閉館される前の中野の映画館で、私やミユウはあのフィルムに熱狂し、そしてオールナイトの劇場を包んだ空気が肌を焼いた。
低温火傷。
私の胸には今でもその痕跡が刻まれていた。
あのフィルムは確か・・・
そうだ。
『三月のライオン』だった。
あのフィルムの結末はどうなったんだっけ。
研究室での仕事を終え、私はキャンパスを出た。
午後6時をまわり、街は紫に沈んでいた。
私はさっき太陽が沈んでいった方へ向かって、目黒通りの緩やかな傾斜を降って行った。
その夜は目黒でヨーコに逢う事になっていた。
ヨーコはいつものように急ぐ素振りも見せず15分ほど遅れてやってきた。
「製図のやり直しがね。」
と、ヨーコはいつも口にする言い訳を堂々と言った。
私たちは権之助坂にある行きつけの焼き鳥屋に入った。
店の中は平日だったこともあり、比較的すいていた。
カウンターの中ではいつものように老夫婦が丁寧に焼き鳥を焼いていた。
私たちはカウンターに座り、ぬる燗と串のおまかせを頼んだ。
「佐藤くんはさぁ。この店に通い始めてどれくらいになるの?」
ヨーコはお猪口に酒を注ぎながら言った。
「そうだなぁ。もう10年くらいになるかなぁ。ねえ、大将。」
私はカウンターの中の対象に向かって言った。
大将は和やかに頷いた。
「へぇ、そっかぁ。」
ヨーコは少し驚いたように言った。
砂肝、ハツ、白レバー、ちょうちん。
この店の名物たちが次々と皿の上に並べられていった。
私たちはそれを口に運びながら他愛のない話をした。
「そういえば。」
と、少し酔うがまわってきたとき、私は言った。
「『三月のライオン』ってフィルム、知ってる?」
「あぁ。矢崎さんのやつでしょ。学生のとき見たよ。」
ヨーコは白レバーを齧りながら言った。
「そうそう。それ。なんかさぁ、三月じゃなくて二月の終わり頃になると急に懐かしくなってさ。今日、ふと思い出したんだよね。」
「それ、なんとなく解るなぁ。」
ヨーコは言った。
あのフィルムが流れてから10年くらい経ったんだ。
そういえば、この店に初めて来たのはその頃かもしれない。
ミユウと出会って少し経った頃だったから。
この店でよく映画論を交わしては喧嘩していた気がする。
「そういえば、引越したんだって?」
ヨーコが不意に言った。
「あぁ。」
「あきゃちゃんから聞いたよ。」
ヨーコは少し不満そうに言った。
直接言わなかったから、か。
「そうそう、研究所ごと引っ越すことにしてさ。」
私は気にしない素振りで言った。
「生まれ育った町だしね。」
私は付け加えて言った。
言い訳するみたいな言い方になってしまったが、そういうつもりはなかった。
店を出てから目黒駅に向かった。
目黒は再開発のラッシュで工事を示す赤いランプが点々としていた。
私たちはまだ新しいビルから東急目黒線のホームのある地下へ降りていった。
「今度、みんなで引っ越し祝いだね。」
ヨーコは券売機の前で言った。
「そうだな。児玉君の顔もここんとこ見てないし。」
私は言った。
私たちはホームで別々の列車に乗って別れた。
私は都営三田線から神保町で都営新宿線に乗り換えて、引越したばかりの新居に向かった。
生まれ育った運河に囲まれた町に。
駅の改札を出て、私は運河にかかる四つ股の橋、私たちがクローバー橋と呼んでいる橋に向かった。
クローバー橋は運河と運河が十字に交差する上に架かっている橋だ。
私は街灯が煌々とする橋の交差する中央へ行き、欄干から運河を眺めた。
土地柄、塩分濃度の濃い運河は、浪間に白い後を描いていて、街頭の光のせいか白い浪間ばかりが目に付いた。
焼き鳥屋や、ミユウや、『三月のライオン』やいろいろ。
「記憶ってフィルムみたい」とミユウがむかし言っていたみたいに、焼き付けられた思い出は低温火傷みたいにいつまでも痕跡を残しているんだな。
などと、15年振りに戻った土地で思う。
そういえば、あの少女はどうなったのだっけ。
「あ。春だ。」
強い風が吹き付けて、髪をかきあげて、私は思わずそう漏らしたのだった。
って言ったのはミルク。
目黒のビルに傾いた夕焼けを研究室の窓から見つめているとき、不意に思い出した。
キャンパスは後期試験を終え、閑散としていた。
毎年、冬と春の間の僅かな季節が心を置き去りにする。
「ここにいるような、いないような」曖昧な自己の輪郭が、淡い空気の間に流れ出して、実態を形作らぬまま漂う。
私はこの状態を「不安」と呼んでいる。
そういえば。
と、私はむかし見たフィルムのことを思い出した。
あれは確か、まだ閉館される前の中野の映画館で、私やミユウはあのフィルムに熱狂し、そしてオールナイトの劇場を包んだ空気が肌を焼いた。
低温火傷。
私の胸には今でもその痕跡が刻まれていた。
あのフィルムは確か・・・
そうだ。
『三月のライオン』だった。
あのフィルムの結末はどうなったんだっけ。
研究室での仕事を終え、私はキャンパスを出た。
午後6時をまわり、街は紫に沈んでいた。
私はさっき太陽が沈んでいった方へ向かって、目黒通りの緩やかな傾斜を降って行った。
その夜は目黒でヨーコに逢う事になっていた。
ヨーコはいつものように急ぐ素振りも見せず15分ほど遅れてやってきた。
「製図のやり直しがね。」
と、ヨーコはいつも口にする言い訳を堂々と言った。
私たちは権之助坂にある行きつけの焼き鳥屋に入った。
店の中は平日だったこともあり、比較的すいていた。
カウンターの中ではいつものように老夫婦が丁寧に焼き鳥を焼いていた。
私たちはカウンターに座り、ぬる燗と串のおまかせを頼んだ。
「佐藤くんはさぁ。この店に通い始めてどれくらいになるの?」
ヨーコはお猪口に酒を注ぎながら言った。
「そうだなぁ。もう10年くらいになるかなぁ。ねえ、大将。」
私はカウンターの中の対象に向かって言った。
大将は和やかに頷いた。
「へぇ、そっかぁ。」
ヨーコは少し驚いたように言った。
砂肝、ハツ、白レバー、ちょうちん。
この店の名物たちが次々と皿の上に並べられていった。
私たちはそれを口に運びながら他愛のない話をした。
「そういえば。」
と、少し酔うがまわってきたとき、私は言った。
「『三月のライオン』ってフィルム、知ってる?」
「あぁ。矢崎さんのやつでしょ。学生のとき見たよ。」
ヨーコは白レバーを齧りながら言った。
「そうそう。それ。なんかさぁ、三月じゃなくて二月の終わり頃になると急に懐かしくなってさ。今日、ふと思い出したんだよね。」
「それ、なんとなく解るなぁ。」
ヨーコは言った。
あのフィルムが流れてから10年くらい経ったんだ。
そういえば、この店に初めて来たのはその頃かもしれない。
ミユウと出会って少し経った頃だったから。
この店でよく映画論を交わしては喧嘩していた気がする。
「そういえば、引越したんだって?」
ヨーコが不意に言った。
「あぁ。」
「あきゃちゃんから聞いたよ。」
ヨーコは少し不満そうに言った。
直接言わなかったから、か。
「そうそう、研究所ごと引っ越すことにしてさ。」
私は気にしない素振りで言った。
「生まれ育った町だしね。」
私は付け加えて言った。
言い訳するみたいな言い方になってしまったが、そういうつもりはなかった。
店を出てから目黒駅に向かった。
目黒は再開発のラッシュで工事を示す赤いランプが点々としていた。
私たちはまだ新しいビルから東急目黒線のホームのある地下へ降りていった。
「今度、みんなで引っ越し祝いだね。」
ヨーコは券売機の前で言った。
「そうだな。児玉君の顔もここんとこ見てないし。」
私は言った。
私たちはホームで別々の列車に乗って別れた。
私は都営三田線から神保町で都営新宿線に乗り換えて、引越したばかりの新居に向かった。
生まれ育った運河に囲まれた町に。
駅の改札を出て、私は運河にかかる四つ股の橋、私たちがクローバー橋と呼んでいる橋に向かった。
クローバー橋は運河と運河が十字に交差する上に架かっている橋だ。
私は街灯が煌々とする橋の交差する中央へ行き、欄干から運河を眺めた。
土地柄、塩分濃度の濃い運河は、浪間に白い後を描いていて、街頭の光のせいか白い浪間ばかりが目に付いた。
焼き鳥屋や、ミユウや、『三月のライオン』やいろいろ。
「記憶ってフィルムみたい」とミユウがむかし言っていたみたいに、焼き付けられた思い出は低温火傷みたいにいつまでも痕跡を残しているんだな。
などと、15年振りに戻った土地で思う。
そういえば、あの少女はどうなったのだっけ。
「あ。春だ。」
強い風が吹き付けて、髪をかきあげて、私は思わずそう漏らしたのだった。
前の5件 | -










